早稲田大学 理工学研究所 Research Institute for Science and Engineering

大規模量子化学計算が拓く化学イノベーション 中井浩巳教授

1量子化学とは

化学と言えば、ビーカーやフラスコなどを使って実験を行うイメージが強いのではないでしょうか。しかし私の研究室では、皆コンピュータに向かって研究に取り組んでいます。これは、量子化学の研究をしているからです。量子化学は、量子力学の基礎方程式に基づいて、物質の性質を理解し活用する学問です。

あらゆる物質は、原子や分子の集合体と言えます。原子は原子核と電子から構成され、分子では正電荷をもった原子核同士が負電荷をもつ電子によって結びつけられています。この電子の「糊」の強さは、すなわち化学結合の強さであり、マクロな物質の硬さとも関係します。ある部分の「糊」がはがれ別の部分につくという変化は、まさに化学反応そのものです。他にも物質による光の吸収、つまり呈色をはじめとして、電子の状態が物質のあらゆる性質を決めています。

それでは、電子の状態はどのように決まっているのでしょうか。電子は、質量が9.1×10-31kg、半径が2.8×10-15mと極めて小さい粒子です。このようなミクロの世界では、ニュートン方程式に基づく古典力学は適用できず、量子力学が必要となります。量子力学の基礎方程式であるシュレディンガー方程式は、通常は解析的に解くことはできません。量子化学計算では、近似を導入し、コンピュータを用いて数値的に電子の状態を決定します。近似計算と言っても、高度な計算では99.99%の精度で解が得られます。

しかし、対象となる系が大きくなり、含まれる電子の数が多くなれば、計算は複雑になり計算時間が増加します。近似のレベルにもよりますが、取り扱う電子の数Nに対して少なくともN 3で、上述の高度な近似法の場合にはN 7で増加します。つまり、電子の数が2倍になれば、計算時間は128(=27)倍になります。

2ムーアの法則と分割統治量子化学計算

コンピュータは年々速くなるので、計算時間の増加はあまり問題にならないと思われるかもしれません。実際、スーパーコンピュータの演算能力は、1年で2倍、10年で1,000倍と目覚ましい進歩を続けています(図1)。しかし量子化学計算では、たとえ1,000倍の演算能力をもってしても、取り扱える電子の数は3~10倍程度に留まります。演算能力が1,000倍になれば、少なくとも1,000倍の数の電子は扱いたいものです。これが、線形スケーリングの発想です。そのために私たちは、分割統治型の量子化学計算法を開発しました。

分割統治の起源は、古代ローマ帝国にまで遡ります。広大になりすぎたローマ帝国は1人の王だけでは、多くの外敵や国内の諸問題を解決できなくなり、東ローマ帝国と西ローマ帝国に分割して統治されました。その後、さらにテトラルキアと呼ばれる4分割統治が行われました。

計算科学の分野にも、同様の戦略があります。デカルトの『方法序説』では「困難は分割せよ」と述べられています。例として、ばらばらの状態にある1~100の数字のカードを順番通りに並べることを考えます。1枚のカードに対して、前に並べたカードとの大小関係を調べ、適切な場所に差し込んでいけば目的は達成されます。しかし、これは効率的とは言えません。まず、1~10、11~20、…というように10枚ずつの組に分け、それぞれを整理したのちに、各組を合わせる方がよほど簡単でしょう。計算科学では、他にも様々な分割統治型のアルゴリズムが開発されています(図2)。

図1 スーパーコンピュータの演算処理能力
図1 スーパーコンピュータの演算処理能力
図2 計算科学における分割統治
図2 計算科学における分割統治
図3 分割統治量子化学計算
図3 分割統治量子化学計算

私の研究室で開発した分割統治量子化学計算法は、巨大な分子を分割することで線形スケーリングを達成しました。分割による誤差は、緩衝領域を考えることで精度を維持しています。これによって、大規模な分子に対しても計算を行うことができるようになりました(図3)。

3相対論的量子化学と元素戦略研究

私の研究室では、様々な応用研究も展開しています。ここでは、資源やエネルギー、環境など、近年の世界的課題の解決に向けた研究の一部を紹介します。

レアメタルは工業的に必要不可欠ですが、文字通り希少であり枯渇の問題があります。我が国では、需要のほとんどを輸入に依存しており、さらに産出国が偏在しているために、政治的にも問題となっています。そこで、レアメタル偏重の社会基盤からの脱却を目指し提案されたのが『元素戦略』です。レアメタルの代替・減量・循環・規制のために、府省の垣根を越えて、基礎・応用研究の国家プロジェクトが推進されています。

私たちは、科学技術振興機構(JST)の戦略的創造研究推進事業(CREST)研究領域『元素戦略を基軸とする物質・材料の革新的機能の創出』において、理論的な立場から研究を展開しています。その基盤として相対論的量子化学計算があります。レアメタルの多くは、第4周期以降の重原子です。重原子では、原子核の近くにある電子は光速に近い速さで運動しており、量子力学に加えて特殊相対論が不可欠です。相対論を考慮しないと、金は金色ではなく銀色で、水銀は液体ではなく固体であると計算されてしまいます。一方、従来の相対論的量子化学計算法では、計算時間の問題から重原子が数個含まれる系の計算しかできませんでした。私たちは、線形スケーリングな相対論的量子化学計算法を開発し、元素戦略に対する理論研究の道を拓きました。

私の研究室は、京都大学触媒・電池元素戦略研究拠点(ESICB)にも参画しています。このプロジェクトは、排ガス浄化触媒と二次電池に含まれるレアメタルの減量・代替を目的としています。自動車の排ガスには、有害な一酸化炭素(CO)、炭化水素(HC)、窒素酸化物(NOx)が含まれています。これらの浄化のため、レアメタルのプラチナ(Pt)とパラジウム(Pd)、そしてロジウム(Rh)を含む触媒が用いられています。また、リチウムイオン二次電池に用いられるリチウム(Li)は、第2周期にある軽原子ですがレアメタルです。どちらもより一般的な元素への代替が望まれます。

4CO2 分離回収

図4 CO2 化学吸収法
図4 CO2 化学吸収法

2015年12月12日、『地球温暖化対策を話し合う国連の会議(COP21)』において「パリ協定」が採択され、196の国と地域が温暖化対策に取り組む国際的な枠組みとなりました。

私たちは温室効果ガスのCO2を分離回収する化学吸収法に関して産学連携で研究を進めています。化学吸収法では、火力発電所や製鉄所などの排ガスからアミン水溶液にCO2を選択的に吸収させ、取り出します(図4)。

吸収塔内では、アミン水溶液とCO2からプロトン化アミンとカルバメートが生成される反応が主として進行します。放散塔内では吸収液を120℃まで加熱し、逆反応を進行させます。

化学吸収法の実用化の鍵は、放散塔で必要となるエネルギーの抑制です。私たちはミクロな視点から反応過程を明らかにしました。より効果的な吸収液の理論設計のため、解析を進めています。

5結言

量子化学は基礎的ですが、最先端の科学技術に直接関係する学問です。資源・環境・エネルギー問題と量子力学や相対性理論との密接な関連を意外に感じた読者も多くいることでしょう。私たちは、この他にも社会の諸問題を新たな切り口で解決すべく、理論研究を展開しています。私は、「理論研究の醍醐味は、基礎を深めれば深めるほど、応用が拡がる」ところにあると考えています。

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